6月・法話

今日はクイズを持ってきて参りました。
ただクイズと言っても、皆様の知識を問うものではなく
必要なのは頓智や閃き、どちらかと言えば
なぞなぞの方が近いかもしれません。
もちろん、どなたかに無理やり、当てて答えさせる
という事はしませんので、お気軽に、心の中で
お付き合い頂ければと思います。

では、問題です。
「体の中のある一部分が、悪い人は、元気な人であるのだが
さて、それはどこでしょうか?」
というのが、問題でございます。
悪いところがあるのに、その人は元気であるという、不思議な話ですね。
この話は、以前に私がお参りに伺ったお宅の、ご主人から聞いたものです。
正確には、「○○が悪い人ほど、元気なんだよね。」と
お話しされたのを、今日はクイズとして出題しております。

さて、「一病息災」という言葉は、ご存知でしょうか。
これは、一つぐらい持病がある方が、健康に気を配るので
かえって長生きするという意味です。
しかし、今日はこの一病息災とは違います。先ほども申しましたが
これは、なぞなぞみたいなものですので
ある程度は冗談として聞いて頂けましたら、私も助かります。
それでは、そろそろ答え合わせをしましょう。

正解は、「口」でございます。
いかがでしょうか。私がなぞなぞと言った意味が、「あ~そういう事か。」と
皆様にも伝わっていれば良いのですが。「口が悪い」というのは
体の事ではなく、その人の性格の問題、という事ですね。
解説をしますと、「口が悪い人間ほど、思った事、喋りたい事を
好き勝手に言えてしまう。
つまりストレスを抱え込む事が無いので、元気なのだ。」という話でございます。
皆様の周りにも、口は悪いけど元気だな、という人が少なからず
いらっしゃるのではないでしょうか。
しかし、元気の為だからと言って
「じゃあ悪口をたくさん言いましょう。」というわけにはいきません。

しかし私は、「許される悪口」なら、ある程度は必要な時と場合も
あるのではないか、と考えております。
それは、お互いの、信頼と、愛情の下に成り立つ、悪口です。
例えば、「馬鹿」という言葉は、状況次第でその意味合いが変わってくると思います。
子ども同士の喧嘩などで使う場合と、親や先生が子を叱る時に使う場合とでは
同じく「馬鹿」でも、その中身は全く異なるものだと言えるでしょう。

仏教では、「愛語」という教えがあります。これは文字通り、愛情のある言葉です。
はたから見れば厳しい言葉でも、相手を思いやるが故の
愛のムチである言葉こそ、愛語だと言えるでしょう。

さて最近では、「パワハラ」という言葉が、よくテレビに登場しております。
相手を思いやる愛情がこもっていないと、受けた側はそれをハラスメント
嫌がらせだと、感じ取ってしまうのではないかと思います。

では最後に、同じ言葉でも、愛語と悪口は何が違うのでしょうか。
それは、悪口の「悪」という字は、心が下にあるので、下心のある言葉。
そして愛語の「愛」の字は、心が真ん中にあるので、真心のある言葉です。
本日はありがとうございました。

2019年6月 法話①

4月・法話

今回、「虚空蔵菩薩」という菩薩さまについてお話したいと思います。
まず、なぜ今回「虚空蔵菩薩」という、なかなか聞きなじみのない菩薩さまについて
話すのかというと、私のお寺、与願寺には「虚空蔵堂」というお堂があり
もともと与願寺というお寺は「虚空蔵堂」から始まったと言われていて
気になったので調べてみたので、今回少しお話させていただきます。

「虚空蔵菩薩」という菩薩さまは元々地蔵菩薩、つまりお地蔵さんと対になる
菩薩さまと考えられています。
お地蔵さんは子供たちを見守って下さることから、よく道の途中の小さな祠の中に
いらっしゃいます。
それに対して、虚空蔵菩薩は「なかなか見ない」、又は「聞いたこともない」という方が
多いと思います。先述したように、お地蔵さんは子供たちを守ってくれる菩薩さまです。
それでは、対と考えられている虚空蔵菩薩はどんな菩薩さまなのか。
簡単に言うと、勉強の菩薩さまとなりましょうか。
虚空蔵菩薩の代表的なお参りに、「十三詣り」というものがあります。
これは十三歳になるときに、虚空蔵菩薩にお参りして
智慧を頂きに行くと言われています。
昔の人たちは、大体十二歳から十五歳で元服、いわゆる成人とされてきました。
子供から大人になる時に、虚空蔵菩薩に無事に大人になれましたという
報告と共に、智慧を頂くという意味合いがあります。
では、続いて虚空蔵菩薩のお姿を見てみましょう。
虚空蔵菩薩は右手に宝剣、左手に宝珠を持っています。
仏教での剣は一般的に「智剣」といわれ、「剣を持つ」とは智慧があるということを
表しています。「三人寄れば文殊の知恵」の文殊菩薩も剣を持っています。
右手の剣は智慧、なら左手の宝珠は何かというと
「願いを叶えるための宝物であり道具」と言われています。
虚空蔵菩薩の「虚空蔵」とは「虚空の母胎」つまり、広大無辺の大きさを持つ
数多のものの詰まった蔵を表していると言われているので
この蔵よりそれぞれの人にあった願い
または智慧をこの左手の宝珠を使って叶えていると考えられています。
また、右の掌を見せて下げる「与願印」という形をとることもあります。
私のお寺の名前にもなっていますが、読んで字の通り願いを与える
叶える印となっています。

いろいろとお話しましたが、「虚空蔵菩薩という智慧、いわゆる頭のよくなることを
願ってくれる菩薩さまがいるんだ」ということを少しでも知っていただけたら幸いです。

2019年4月①

2月・法話

二月と言えば節分です。
節分とは季節を分けると実はこの月だけでなく、春、夏、秋、冬ありますが
特に立春の前を一年の始まりと重んじて二月の節分のみ
行事として残ったようです。
節分の行事といえば豆まきですが、元々はあまり仏教とは
関係ない説が有力なようです。
「豆は魔滅に由来する」とか「魔の芽を出さないため煎った豆を使う」と
由縁から豆を用いるというようですが、魔を滅ぼすとか鬼に豆をぶつけて
退散さすという精神でおこなうのは仏教らしくないので
やはり仏教の教義とは異なるものになります。

しかしお寺の行事にお施餓鬼というのがあります、餓鬼という小鬼に
餓鬼米とよばれる米をまいたりさまざまな食物を供えたりして
先祖供養に繋げる行事です。
宗派によっては毎食、ひとくち目は下にまき餓鬼に施す作法があると聞きます。
私的に解釈すると豆まきも豆を投げつけ鬼を退散させるのではく
お施餓鬼のように施すことにより供養する行事とすれば
仏教的見地からも理解出来なくもありません。
鬼は外に追いやるものではなく鬼も己の内とし、みとめ抑え共存していく
鬼と云う己の煩悩も消すのではなく、そんな愚かな私でさえ
許していただける仏の慈悲に、はたと気づかされます。
今年も『福は内、鬼も改心して内』の理念でやっていきたく思います。
合掌

1月・法話

お念仏の話です。
皆さまは、自宅のお仏壇にお参りする際はお念仏を唱えるかと思います。
お念仏は宗派によって唱える文言が異なりますが
我が宗派では「南無阿弥陀仏」と唱えています。
ですが、この南無阿弥陀仏の意味って皆さんご存知ですか?

阿弥陀様がまだ菩薩のとき衆生を救う誓いを立てました。
それは、「南無阿弥陀仏と唱える一切の衆生を摂取して捨てたまわず。
(私の名を唱える者は一人残さずお浄土へお救いします。)」という
約束されたお言葉です。
この誓いを立てられて阿弥陀様になられました。
南無阿弥陀仏の阿弥陀仏は仏様のお名前ですが
南無という言葉には、~に帰依します、お慕いします、という意味合いがあります。
ですので、お念仏は弔いの言葉と共に阿弥陀様がきちんと聞いていらっしゃって
お浄土へ行く切符を皆さまは知らず知らずのうちに手にしているのです

12月・法話

命にかかわるような危険な体験をすることを、「三途の川を渡りかけた」とか
「危うく三途の川を渡るところだった」などと表現することがあります。

三途の川とは皆さまご存知の通り「この世」と「あの世」の境を流れている川のことです。
誰もが聞いたことのある大変有名な川ですが、誰もその存在を証明できませんね。
でも伝え聞くところによると、生前の行いによって川の渡り方が違うらしいのです。
生きているときに、たとえ自分が苦しくとも他人に喜びや楽しみを多く与えた人は
金銀七宝で造られた橋を渡り、それほどでもない人は浅水瀬という浅瀬を渡り
自分の事ばかりで他人から喜びを奪い取り
他人に苦しみを与えた人は強深瀬という辛く苦しい深瀬を渡るとのこと。
三種類の渡り方があるがゆえに「三途の川」というのですね。
いつか渡らねばならない三途の川。どうせなら橋を渡っていきたいですね。

「人が死んだ後に残るのは、得たものではなく人に与えたもの」

①2018年12月