12月・法話

今年も残り少なくなってまいりました。
振り返ると皆様それぞれいろいろなことがあったかと思いますが
今この時平穏で過ごせることが幸せかもしれません。
とはいえ、やはり健康で充実した日々を送れるよう願いたいものです。
そのためには、心をいかに豊かにそして温かく持ち続けるか・・・
医学的にもよく言われることでもあります。

仏教では、このような心を得るために
「他の人のために行動する」暮らし方を日々心がけましょう
と導びかれています。これを『利他』と呼んでいます。
利他はよくこのような使い方をします。皆さんは心当たりはあるでしょうか。

「自利利他」・・・自らの幸せを求めつつ、他の人の幸せを願う。
「忘己利他」・・・自らの幸せを差し置いて、他の人の幸せを願う。

忘己利他はそう簡単に実践できることではありませんが・・・
利他は、言葉を置き換えると、「施す」ことになります。
身近なところですと、私たち僧侶がいただくお礼を「お布施」と言います。
昔々、僧侶は信者の方々からいただいた布キレを縫い合わせた衣を着ていたことに
由来すると言われていますが、この他にも、施(せ)の前に一文字加えると
他の人のために行動できる様々な「施し」ができるのではないでしょうか。

財施(寄付)
眼施(優しい眼差しを向ける)
身施(手を貸す、助ける)
聞施(悩んでいる人の話を聞く)・・・

他に思いつくものはありますか?
難しくはないはずです。私たちが少しだけ行動を起こせば
お互いに心が豊かに温かくなれると思います。
そんな暮らしを心がけると、今年も充実して締めくくることができ
気持ち良く新年を迎えられそうですね。

11月・法話

今年は十月四日が十五夜・中秋の名月でございます。
中秋の名月というと九月のイメージがあったのですが
旧暦の八月十五日ということで、十月になることもあるようですね。
また、中秋の名月といえば真ん丸お月様、満月だとばかり思っていましたが
必ずしもそうではないようです。
恥ずかしながらこの度初めて知りました。皆様ご覧になりましたでしょうか。
私は四日の夜、所用を終え大阪から愛知へ帰る途中、山間の高速道路を
走っていた時、お月様が目に入りました。
あたりはほとんど照明のない真っ暗闇、見えているのは道路だけ
というような場所。そんな場所で優しく光っているお月様がありました。
周りが真っ暗闇であることによって、普段より一層お月様の光を感じました。
帰り道をずー っとついてきてくれるようにも見えます。
高速道路で脇見運転ならぬ見上げ運転ですが…。

周りを優しく照らすお月様、ついてくるお月様。仏教の開祖、お釈迦様が
残された言葉にこのような言葉がございます。

「人が行くこと百里千里であっても、月は常にその人に従う。
月はまたすべての上に現れる。町にも、村にも、山にも、川にも、池の中にも
かめの中にも、葉末の露にも現れる。月そのものに変わりはないが
月を見る人によって月は異なる。仏もまたそのように、世の人々に従って
限りない姿を示すが、仏は永遠に存在して変わることがない。」

仏さまって何ということの一つの答えが語られています。
仏さまはお月様の様に、分け隔てなく私たち一人ひとりを照らして下さり
いつも私たちと共にあってくれるのです。
そしてそのあり方は様々で、時には風が、時には音が
もしかしたら今隣にいる人が仏さまであるかもしれません。
仏さまを身近に感じられた時、一人じゃない、そう思えるはずです。

中秋の名月は過ぎましたが、益々空気が澄んでいくこれからの季節
お月様を眺めながら、仏さまを心に思い浮かべてみてはいかがでしょうか。

老人クラブ法話  2017年10月

10月・法話

これは棚経へ行ったときのお話です。
いつものように、檀家さんの家にお参りへ行きました。
お仏壇の前に座り、お経を唱え終わり、お布施をお預かりして
お寺へ戻ろうと家の玄関を出たときです。
檀家さんの家の向かい側の家の方が挨拶をしてくれました。
お参りに行った檀家さんとは、ご近所付き合いがあるような感じでした。
車に乗り、出発しようとした時に、そのご近所のおじいさんが私を引きとめ

「良ければ野菜を持っていかんか?」
と、言われました。

檀家さんからは、何度か、お仏壇のおさがりなどは頂いた事はありましたが
ご近所さんからは初めての事でしたので、ビックリしてしまいました。
その後、畑でとれた野菜を袋いっぱい頂いてお寺にもどりました。
今まで、布施というのは、檀家さんと僧侶の施しあいの事なのだと感じていました。
僧侶がお経や法話をする布施(法施)をし
檀家さんもまた、布施(財施)を施すという事です。
ですが本来、布施とは対価として支払うものではなく
慈悲の心を持ち、自分の持てるものを惜しまず
見返りを求めずに差し出す事が布施の意味です。
おじいさんの布施で、今一度、布施とはどういう意味なのかという事を
思い出させてくれるような出来事でした。

9月・法話

九月と言えば「お彼岸」です。三週目の連休には、お墓参り出かける方も多いでしょう。
では、そもそもお彼岸の由来は何処にあるのでしょうか。
彼岸という言葉自体は岸に至るという訳ですが、仏教の意味ですと煩悩を克服して
涅槃の境地に至るということになります。
但し、さらに原語まで遡って調べてみますと
「宗教的な智によって迷いを超克してゆくこと」と、当時のインドでは
仏教以外(バラモン教)の宗派でも理想的な概念として扱われていたようです。

さて、このように長い歴史を持つ彼岸ですが、日本では律令時代に伝わり
平安期には朝廷を中心として儀式として用いられるようになり
江戸期には年中行事として民衆に定着しました。
今では先祖供養として、また四季流転するこの国においては特に季節の変わり目を
実感できる行事でもあります。
このように日本では供養を中心として親しまれていますが、本来は迷いを取り除き
悟りの境地へと近づく高尚な概念。
我々の宗派においては聖典「観無量寿経」の
日想観に説かれる(春と秋に西方の弥陀を観じる)観法のひとつともされています。
先祖の供養と共に我々凡夫の真の命は弥陀の本願力によって救われてゆく……。
そう実感して頂ければ、何よりだと思います。

7月・法話

皆さんは、食事の前に「いただきます」の挨拶をしますか?
私は自宅で食事をする時は言いますが、外食時は恥ずかしくて
小さな声でさりげなく…。なんてこともあります。
私のお寺では年に3回、近所や檀家さんの子どもたちが集まる
子ども会を開催しています。
本堂でのお経のお稽古や境内でゲームをして遊びます。
お昼ご飯には、前日から準備したカレーライスを振る舞うのですが
食べる前に「食前の言葉」を唱えます。

「天地一切のみ恵により。今この食を受く。食の由来をたずねて。
味の濃淡を問わず。謹んでこれを造られた人々の御苦労に感謝をいたします。
いただきます。南無阿弥陀仏」と。
 
この言葉には、「食材となった様々な命と食事ができるまでに関わった人々の
存在を認識し、感謝していただきます」という意味が込められています。

私たちは食べることで生命を維持していますが
その食べている動物や植物たちにも命があります。
また食事ができるまでには、食材を作った人や調理をした人など
多くの人たちが関わっています。
食事ができるのは当たり前でなく
尊い命とたくさんの人の力のおかげによって成り立っているのです。
 
子ども会に何度も参加してくれているある子が、この食前の言葉を
学校の給食時間の前に唱えているそうです。
子どもにできて、教えている当の本人ができていないとは…。
まだまだ修行が足りません。