10月・法話

これは棚経へ行ったときのお話です。
いつものように、檀家さんの家にお参りへ行きました。
お仏壇の前に座り、お経を唱え終わり、お布施をお預かりして
お寺へ戻ろうと家の玄関を出たときです。
檀家さんの家の向かい側の家の方が挨拶をしてくれました。
お参りに行った檀家さんとは、ご近所付き合いがあるような感じでした。
車に乗り、出発しようとした時に、そのご近所のおじいさんが私を引きとめ

「良ければ野菜を持っていかんか?」
と、言われました。

檀家さんからは、何度か、お仏壇のおさがりなどは頂いた事はありましたが
ご近所さんからは初めての事でしたので、ビックリしてしまいました。
その後、畑でとれた野菜を袋いっぱい頂いてお寺にもどりました。
今まで、布施というのは、檀家さんと僧侶の施しあいの事なのだと感じていました。
僧侶がお経や法話をする布施(法施)をし
檀家さんもまた、布施(財施)を施すという事です。
ですが本来、布施とは対価として支払うものではなく
慈悲の心を持ち、自分の持てるものを惜しまず
見返りを求めずに差し出す事が布施の意味です。
おじいさんの布施で、今一度、布施とはどういう意味なのかという事を
思い出させてくれるような出来事でした。

9月・法話

九月と言えば「お彼岸」です。三週目の連休には、お墓参り出かける方も多いでしょう。
では、そもそもお彼岸の由来は何処にあるのでしょうか。
彼岸という言葉自体は岸に至るという訳ですが、仏教の意味ですと煩悩を克服して
涅槃の境地に至るということになります。
但し、さらに原語まで遡って調べてみますと
「宗教的な智によって迷いを超克してゆくこと」と、当時のインドでは
仏教以外(バラモン教)の宗派でも理想的な概念として扱われていたようです。

さて、このように長い歴史を持つ彼岸ですが、日本では律令時代に伝わり
平安期には朝廷を中心として儀式として用いられるようになり
江戸期には年中行事として民衆に定着しました。
今では先祖供養として、また四季流転するこの国においては特に季節の変わり目を
実感できる行事でもあります。
このように日本では供養を中心として親しまれていますが、本来は迷いを取り除き
悟りの境地へと近づく高尚な概念。
我々の宗派においては聖典「観無量寿経」の
日想観に説かれる(春と秋に西方の弥陀を観じる)観法のひとつともされています。
先祖の供養と共に我々凡夫の真の命は弥陀の本願力によって救われてゆく……。
そう実感して頂ければ、何よりだと思います。

7月・法話

皆さんは、食事の前に「いただきます」の挨拶をしますか?
私は自宅で食事をする時は言いますが、外食時は恥ずかしくて
小さな声でさりげなく…。なんてこともあります。
私のお寺では年に3回、近所や檀家さんの子どもたちが集まる
子ども会を開催しています。
本堂でのお経のお稽古や境内でゲームをして遊びます。
お昼ご飯には、前日から準備したカレーライスを振る舞うのですが
食べる前に「食前の言葉」を唱えます。

「天地一切のみ恵により。今この食を受く。食の由来をたずねて。
味の濃淡を問わず。謹んでこれを造られた人々の御苦労に感謝をいたします。
いただきます。南無阿弥陀仏」と。
 
この言葉には、「食材となった様々な命と食事ができるまでに関わった人々の
存在を認識し、感謝していただきます」という意味が込められています。

私たちは食べることで生命を維持していますが
その食べている動物や植物たちにも命があります。
また食事ができるまでには、食材を作った人や調理をした人など
多くの人たちが関わっています。
食事ができるのは当たり前でなく
尊い命とたくさんの人の力のおかげによって成り立っているのです。
 
子ども会に何度も参加してくれているある子が、この食前の言葉を
学校の給食時間の前に唱えているそうです。
子どもにできて、教えている当の本人ができていないとは…。
まだまだ修行が足りません。

6月・法話

よくこんなことを聞かれます。
「法事はやったほうがよいでしょうか・・・?」や
「やらなければいけないんですか?」と。
私が「やらないかんのか?と思うならやめましょう!」というと
必ずビックリされて、「いや、そんなわけには・・・」と言われます。
おそらく皆さんやった方がよいことは分かっていらっしゃるんです。
 
さて、法事は何のためにやるのでしょうか?
もちろん、故人を弔い功徳を向けて供養することです。
しかしそれだけではなく、なかなか集まることのない身内が集まることで
より多くの方の功徳と、故人によって繋がれた多くの御縁の絆に
感謝させていただく心もお供えする事でより多くの功徳を向けられるのです。

皆さんがこれまで積んでこられた功徳を法事の席で
個人に向けていただくことを回向と言います。
回向とは他人の為に善行を回し向ける事。
故人を弔い、故人に代わってお経をあげてあげることで、自分の善行をも重ねる。
人の為にした行いが回りまわっていつか自分に返ってくるのです。

ですので、法事は「させていただく。お経をあげてあげたい。」の
謙虚な気持ちでお参りすることが大切で、故人の為、皆の為、家族の為を
思いお参りしていただければと思います。

2017年6月②

5月・法話

桜も終わり、やっと過ごしやすい日々になりました。
これだけでも有難いなぁと感じるのは、不思議なものです。

世の中はゴールデンウイークでどこか行こうか計画している人も多いと思います。
私の住んでいる所では、この時期に町内の祭りがあります。
山車(だし)も出るので毎年ゴールデンウイークどころではないです。
準備、当日の祭り、後片付けと何かと人手がいるもで
当然、町内の中には『もうやめようや』と不平不満が出できております。
何とか続けて行けるようと昔ながらのやり方ではなく
山車を引くのを一年ごとにして、引かない年は、飾り付けをした
山車見てもらうと形も変えて続けております。
これも、自分の先祖が残してきたものして町内の人々の胸の中に
生き続けておるからこそやり続けているんだと感じております。

この世は、諸行無常であり、生まれた者は死んでいくが百年二百年と
後世の胸の中に生き続ける こんな生き方をしたいものです。